やまびこアンテナ

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「才能」だと思えるほどの能力を、人は努力で身につけることができる!

どうも!やまびこです♪

 

今日は、『「才能」だと思えるほどの能力を、人は努力で身につけることができる!』というタイトルで書きます♪

 

1.「標準語が上手い」という僕の才能

僕は、昔から「標準語が上手い」と言われてきました。

自分では気づかなかったことですが、どうやら僕の標準語は、声のトーンやイントネーションも含め、関東出身と間違われるほどに上手いようなのです。

 

それは、まだ九州から出たことがなかった大学時代からそうでした。

例えば、福岡出身の友達に対して気づかないうちに標準語で話していて、「なんでお前、標準語でしゃべっているんだ?」と聞かれたことがあります。

他にも、東京に来てすぐの新入社員研修の飲み会の場でも、言葉が標準語であったため「九州の人だとは思わなかった!」と言われたことがあります。

 

しかし僕は、就職をするまで九州以外に住んだことはありません。

標準語と触れる機会は、時々見るテレビだけでした。

そういったこともあり、僕は「標準語が上手い」ことは自慢こそはできませんが、特技やちょっとした才能なのだと思っていました。

 

2.「才能」ではなく、「環境」と「努力」の結果だった

しかし、先日実家に帰った際、驚愕の事実が判明しました。

それは、「僕が幼稚園~小学校低学年のとき、美しい標準語を聞いて話すという環境にいた」という事実です。

 

というのも、先日親と話をしていたとき、僕の幼馴染2人の母親が、それぞれ神奈川県出身と千葉県出身であったことが分かったのです。

 

神奈川県と千葉県といえば、当然のごとく標準語です。

そしておそらく、その幼馴染2人の家庭は九州弁を理解できない母親に合わせて、標準語が基本の家庭だったと思うのです。

 

つまり僕は、幼い頃から「友達と遊ぶときは標準語」を使い、「両親や祖父母と話す際は九州弁」で話すという環境にいたことになります。

今では思い出すことも難しいのですが、よくよく思い出すと、僕は幼馴染と標準語で会話をしていたように思います。

 

このことを知って、僕は「標準語が上手い」ことが特技でも才能でもなかったことが分かったのです。

今では、特技や才能だと思っていたことが恥ずかしくてしょうがありません。

この一件で、僕は「自分が才能だと思っていることは、自分で思っている以上に、環境によって培われたものである」という教訓を得ました。

 

3.「才能」に近い能力を身につけることができるという希望

「人は環境の生き物である」

この言葉は、僕の友人で経営者の向山雄治さんに教わった言葉です。

今回の一件は、まさにその言葉通りの一件です。

僕の標準語のイントネーションが本物そっくりなのは当然で、子供の頃から美しい標準語を聞き、話していたからこそ培われたものでした。

 

「特技や才能ではなかった」というのは少しだけ残念に思いますが、これは一つの大きな希望だと思います。

というのも、人が能力を身につける上で、周囲の環境が思っている以上に大きな影響を与えることが分かったからです。

気づく、気づかないに関わらず、人は環境に大きく左右されるのです。

 

人が環境の生き物であると教えてくれた向山さんも、その経歴を見ると、もともと才能があった人なのではないかと思ってしまいます。

humanstory.jp

しかし、向山さんはいつもそのことを否定されます。

向山さんが作った結果は、すべてはご自身の努力によって手に入れてきたことだからです。

 

そしてそれは、僕自身についても言えることです。

特技や才能だと思っていたことの背景には原因があり、努力の結果であった。

そのことは、僕が数年の努力によって「才能」だと思われるほどの能力を身につけることができることを意味します。

 

僕にとって向山さんは、非常に能力が高く才能にあふれる方というイメージが強く、努力されてきたことは間違いがなくとも、少なからず生まれ持った何かが違うのだと思っていました。

しかしそうではなく、人が「才能」だと思うことも、わずか数年で身につけることができる。

この一件は、その可能性を知ることができた一件となりました。

 

3.さいごに

今回は、僕自身が特技や才能だと思っていたことが、実は環境や努力によって培われたものであったということを書きました。

僕自身、今回の一件は非常に衝撃的な事実でした。

「子供の頃にどんな言葉で話していたか」などは覚えているはずもなく、東京に来て標準語で話せる人もいれば話せない人もいて、僕自身は話せる「できる人」だという認識が覆されたのです。

それはもう、非常に恥ずかしい思いでした。

 

しかしこれは、自分が才能や特技だと思うことも、わずか3~4年の努力で身につけることができることを意味します。

そうなのであれば、僕自身は今からででも大きく変わることができ、人が才能だと思ってしまう能力を身につけることができるのです。

そのことに期待をしつつ、日々努力を積み重ねていこうと思います。

 

ただ、気がつかなかったのも当然で、僕は標準語も九州弁も「理解できる言葉」として認識しています。そのため、意識をしなければ相手がどちらの言葉で話しているのかを聞き分けることができないのです。